
40年目の再定義:「精神」とは「個性」である
あの時、私が図書館でコピーしたトヴィディーの本には、「精神はピアニストの芸術的センスである」と書かれていました。 40年経った今、LDE(ロゴダイナミック実存主義)を体系化するにあたり、私はこの比喩をより明確な言葉で定義し直しました。
精神とは、不可思議な幽霊のようなものではありません。 精神とは、その人独自の「個性」そのものです。
かつて恩師は「心理学は個性を研究するものだ」と言いました。 私たちの「身体(ピアノ)」や「性格(心理的傾向)」は、遺伝や環境によってある程度決まってしまうかもしれません。しかし、それをどう演奏するか、どういう曲調で人生を表現するかは、私たちの「精神(個性)」というオペレーターに委ねられています。
私が「商売に向かない」という性格(事実)を持っていながら、それを「誠実な営業」という独自の演奏(意味)に変えられたのは、私の精神がそのように指揮したからに他なりません。
科学化の壁と「数値化」の誘惑
私はネットでスピリチュアルのユーチューブを見ていたことがあります。
そこでは「こっちの水は甘いぞ」といった言葉で巧みに視聴者を誘う言葉が流れていました。
これでは人間の「精神」が脅かされると思い。心理学がヴィルヘルム・ヴント
のように科学的精神学ができないかと、スピリチュアアルの本を読んでいました。
ある日、デヴィッド・ホーキンズの「パワーかフォースか」という一冊の本を読んでいました。
ホーキンスの「意識のマップ」はウイーンの三大巨匠の理論と共通であることがわかりました。
そこで私は、精神のレベルを客観的に示すために、デヴィッド・ホーキンズ博士の「意識のマップ」のような、精神性を数値化するモデルに興味を持ちました。
そうすれば「科学的精神学」というものが出来上がるのではないかと思い、このホーキンズのマップを利用して、LDEを「精神学」としてAIに学習させようと考ました。
確かに、これは分かりやすい。 「これをLDEに取り入れれば、科学的な統計が取れるかもしれない」 一瞬、そう考えました。
そして、AIのディープリサーチの機能を使って検討してもらった結果、「ホーキンズの意識のマップは科学的根拠がないので採用できない」と却下されたのです。
人間の意識レベルを1から1000までの数値で測る。
しかし、私はすぐにその考えを捨てました。
「数値化」には、致命的な毒が含まれていることに気づいたからです。
差別というニヒリズム
もし、人間の精神に点数をつけたらどうなるでしょうか? 「あの人はレベル500だから素晴らしい」「私はレベル200だから価値が低い」 そこには必然的に優劣が生まれ、差別が生まれます。
点数が低いとされた人間は、「自分はダメな人間だ」というニヒリズム(虚無)に突き落とされます。 これは、ナチスの強制収容所を生き延び、あらゆる人間に「無条件の尊厳」を見出したフランクルの思想に真っ向から反するものです。人間の尊厳は、秤(はかり)にかけられるものではありません。
だから私は決めました。 LDEは、人間を数値で測らない。 高さ(レベル)を競うのではなく、別のものさし――「方向性」を重視するのだ、と。